銀閣寺

2015/12/24

東山慈照寺

銀閣寺のルーツは文明14年{1482)に室町8代将軍・足利義政が造営した山荘「東山殿」に」はじまる。当時は銀閣をはじめ12棟の建物がならぶ壮麗なたたずまいだったという。義政は、ここに一流の文化人を多数招き、一種のサロンとした。ここでの文化人たちの交流によって東山文化は生まれ、熟成されていったのだ。いわば銀閣寺は東山文化の情報発信基地ともいえる存在だった。
延徳2年(1490)に義政は死去。その遺命によって東山殿は臨済宗相国寺派の禅寺に改められる。義政の法名にちなんでその名も慈照寺となった。創建時は東山殿の遺構をそのまま受け継いで、境内には数多くの伽藍がならんでいたのだが、現在、その当時からある建物は銀閣と東求堂(義政の持仏堂)を残すのみである。

山門の紅葉

足利義政が山荘「東山殿」を造営したのは、彼の祖父・義満が造った「北山殿」(金閣寺)をならってのことだという。義満といえば北山文化の中心人物、義満とならんで足利将軍家を代表する文化人でもある。そんな祖父へのライバル意識もあってか、義政は当初、金閣に対抗して銀閣にも建物全体に銀箔を施す予定だった。だが、衰退期にさしかかった室町幕府の財政状況ではその資金を捻出できずに、この計画もとん挫してしまった。しかし、銀箔を施さなかったことで、銀閣は時がたつごとに、枯れた感じの「わび」「さび」の風情を漂わせるようになる。それが結果として後世の人々に「東山文化の神髄」「金閣にまさる美しさ」との高い評価を得ることにぬながった。

銀鏡池ごしの観音殿・銀閣。国宝指定。上下2層からなり、屋根は宝形造りの柿葺き。

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銀沙灘(ぎんしゃだん)

銀閣寺の名物の一つになっている巨大な砂盛りの銀沙灘は、
江戸時代の初期になって作られたものだ。

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山門の紅葉

ダイナミック。

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山門の紅葉

冬の日暮れは早い。南からずっと歩いてきて銀閣寺についたのは4時過ぎ。
5時で閉門なので、駆け足で見ることになった。
銀閣寺のもみじが一番鮮やかと思われる場所からの一枚は、
暗くて、シャッタースピードが稼げない状態での撮影となった。
現代と古の融合となるか?

参考文献:今日の古寺あるき(実業之日本社)

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